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2011年3月18日金曜日

河合薫 震災にあう

コラムニストの河合薫さんが講演のため訪れていた帰りの水戸駅で地震に遭遇したという、恐怖の60秒を語りました。



大震災 孤立して諦めかけた私を救った“声の力”
何気ない一言で人のつながりは生まれる

 分かっているつもりでいても、自らが体験しないと分からないことがある。

 今、思えば……、東京で暮らす私たちにとって、阪神・淡路大震災の恐怖と混乱と悲しみは、人ごとだったような気がしてならない。リアリティーがあるようでなかった。いや、私たち、ではなく、私、と言い変えよう。私は分かっているようで分かっていなかったのだ。

 3月11日金曜日の午後2時46分。東北地方太平洋沖地震が起きた時、私はJR水戸駅のホームにいた。

 東北地方の震源地近くに比べれば揺れは大きくなかっただろう。沿岸部を襲った津波もなかった。それでも、水戸駅は一瞬にして機能不全とパニックに陥った。

 生まれて初めて、死ぬかも、と思った。

 幾度となく阪神・淡路大震災の映像を見て、地震の怖さが分かっていたつもりだった。だが、土煙が上がり、目の前の建物が大きく横に揺れ動いて、線路に振り落とされそうになり、改めて自然の猛威を思い知った。

 阪神・淡路大震災が起きてから10年目を迎えた時のことだ。当時の神戸市の市長さんが、「私たちを救い、再び立ち上がる力をくれたのは、人、でした」といった内容を語っていたが、今回、初めてその「人」の意味が分かったように思う。

 少しばかり大げさで、飛躍してると思われてしまうかもしれないけれど、「死ぬかも」という思いがよぎった瞬間に感じたことは、まさに市長さんが言った言葉の真意だった。

 そこで今回は、うまく書けるかどうか自信がないのだが、水戸駅で遭遇したこと、そこで出会った人々、これまで私が「人」にとって大切だと考えてきたこと――。そんないくつかの点が結びついた出来事を、できる限りありのまま書きつづろうと思う。

 これは単なる地震ドキュメントではなく、「人」とは何かという、かなり壮大なテーマの枠組みで、読んでいただければ幸いです。

ホームに落ちそうになった私を引き上げてくれたおじいさん

 まずは、当日の状況からお話ししよう。

 11日の金曜日。水戸駅近くのホテルで講演会を終えた私は、改札口まで担当者に送っていただき、午後2時35分ごろに改札口を通った。
 
 2時50分発の電車まで、少しばかり時間があったので、駅構内のお土産屋さんで、水戸の梅ドラ焼きを1つと飲物を買って、ホームに下りた。

 乗車車両は4号車。切符を片手に持ち、乗車口の前に並ぶ。隣には70代くらいと思われるおじいさんが立っていた。

 「間もなく電車が参ります」とのアナウンスが入るやいなや、カタカタとホームが揺れ始めた。

 新幹線のホームなどでは、電車がホームに入ってくる時に軽い振動と風を感じることがあるが、「常磐線の特急も結構、飛ばしてくるんだなぁ」などと、のん気に思っていた。

 ところが、である。

 次第に振動にうなるような音が加わり、ホームの柱が大きく横に揺れ始めた。

 「地震だ!」と叫ぶ声があっちこっちから上がり、私は思わず隣に立っていたおじいさんの腕につかまってしまったのだ。

 その途端に土煙が舞い上がり、天井から大きな破片や砂がホームに激しく落ち始め、隣のビルのガラスが割れ落ち、天井が傾き、ホームから線路に投げ出されそうになった。

 近くにいた年配のご夫婦が、「こっちに来ないと線路に落ちるぞ!」と声を上げ、腕をつかんでしまっていたおじいさんに、「移動しましょう!」と手を引っ張られて、私も動き始める。

 ところが、さらに揺れが激しくなり、動くに動けない。腰をかがめてうずくまらないとホームから線路に投げ出されそうになるのだ。

 そこで、左手で地面を押さえ、右手で壁を必死につかまえて、何とか階段下のホーム中央まで移動した。

 「地震は長くても1分」と教わっていたように思うのに、ちっとも揺れが収まらない。揺れていた看板がはずれて落ち、悲鳴を上げた女性の声が響きわたる。

 「私、ここで死んじゃうのかも……」──。マジでそう思ったのだった。

 やっと揺れが収まった時には、既に駅は停電していた。駅員さんが「怪我をされている方はいませんか?」と走り回り、「何も情報がありません。まだ、何も分かりません。みなさん、落ち着いてください」と声を張り上げていた。

 携帯をチェックするけど、何も情報が入らない。周りにいた人たちも一斉に、携帯をチェックして情報を得ようとするが、何も分からない。

 すると再び、大きく揺れ始める。

 「こっちに来ないと危ない!」と先ほどのおじいさんに肩を抱えられ、階段の脇まで移動する。

 再び、揺れが収まると、駅員さんが「駅の外に避難してください」と誘導を始める。すると、近くにいた40代くらいのサラーマン風の男性2人組と、40代後半くらいの男性1人は一気に階段を駆け上がった。

 一方、年配の女性たちのグループは地震で受けた恐怖から動けない。先の年配のおじいさんと、20代くらいの男性が「上に移動しましょう」とおばあさんたちに声をかけ、私も一緒に改札口に移動したのだった。

 階段を上がる途中で、20代の男性が持つ携帯の画面に地震速報が入り、「仙台で震度7です!」と大声で叫ぶ。一斉にどよめきが起こるが、やっと情報が入ったことで、少しばかり安堵が広がる。

 階段の上では、数分前にドラ焼きを買った店のガラスが割れて倒壊し、駅の改札口付近には、水道管が破裂して水がどんどんと流れ込んでいた。

 改札を出たところでおじいさんと別れ、ここから、途方に暮れる時間が始まったのである。

途方に暮れた私に声をかけてくれたバスの運転手

 まず、駅の外には人があふれ、余震が来るたびに悲鳴とガラスの割れる音、落ちる看板が相次ぎ……。

 見る見るうちに駅が封鎖され、「〇×小学校に避難してください」という指示に応じて、多くの人が移動。誘導していたのは、駅に隣接していた丸井の社員たちだった。

 駅前にいた人たちの多くは地元の住民と思われる。旅行者3割、出張などのサラリーマン1割といったところだろうか。

 地元の人たちは避難所の小学校に向かい、サラリーマンの人たちは会社に戻るのか、三々五々、明らかに目的地に向かって歩き始め、駅前には旅行者のグループが残された。

 恐らく見ず知らずの土地で、見ず知らずの人たちの中で、水戸に知り合いも、行く場所も、何もなかったのは、私だけじゃないか、と思われる状況だった。

 誰も知り合いがいない状態は、かなり恐怖。どんどん冷えてくるし、周りの状況も分からない。そうした中、幾度となく余震が押し寄せてくる。

 とりあえず講演会のあったホテルに戻れば、主催者の人たちと会えるかもしれないと行ってみる。しかし既にホテルは停電でクローズし、全員が小学校に避難し、もぬけの殻だった。

 講演会の担当者の携帯を鳴らすもつながるわけもなく、「あ~、早くどうにかして南下しないと、このまま水戸で過ごすことになっちゃう」と気持ちは焦るばかりだった。

 そこで、駅に戻るしかないと、再び駅に向けて歩き始める。

 すると、「ねえちゃん、どうした? 東京から来たのか?」と、バスの運転手と思われる男性に声をかけられた。

 「はい、どうしよう…」と、何とも情けないのだが、私は半べそ状態で答える。

 「困ったなぁ~。さっき警察から連絡があって、道路は寸断されてるし、あっちこっち通行止めになってるから帰れないぞ」と運転手さんは言う。

 「でも、東京に帰りたい。ここにいても誰も知った人がいないし……」

 「今だったら、まだタクシーが動いているから、早く見つけて行けるところまで行くしかねえなぁ。あっ、あそこにタクシー走ってるけど、乗ってるな。あそこまで行けばつかまるかもしれないから、行ってみな」と駅前の大通りの角まで連れていってくれた。

 タクシーが来なくても、東京方面の車が通ったら乗せてもらおうと思うのだが、通り過ぎるのは水戸ナンバーの車ばかり。
 
 いったい何分待っただろうか。やっと空車のタクシーを発見し、大きく手を振る。

 「東京までは行けないけど…、まっ、いいや。土浦かどっかまで行こう。乗りな」とタクシーの運転手さん。こうして、やっとタクシーに乗れたのだった。

 その後、国道6号を走り続けるのだが、道は陥没し、余震で道路脇の店舗の外壁は崩れ落ち、バス停が一気に陥没し、橋が落ちた。大渋滞で3キロ進むのに5時間を要し、停電で車のライト以外真っ暗闇だった。

 連絡の取れた事務所のスタッフが「土浦も停電で機能がストップしているから、つくばに向かった方がいい」とメールをくれたので、つくばに向かう。

 何時にたどり着くか分からない中、タクシーの運転手さんは私に話かけてくる。

 「あれれ、墓が崩壊してるな」
 「ほれ、店も倒壊しているぞ」
 「東京もパニックだな」
 「おっ、病院か? 電気ついてるな」
 「花粉症か? ティッシュそこにあるぞ」

 そうなのだ。こんな緊急事態に情けない話なのだが、水戸は花粉が多い。杉の木があちらこちらにあって、鼻水が止まらない。目がかゆくてコンタクトが曇るのだが、眼鏡を持っていないのではずすわけにもいかず。止まらぬクシャミで最悪だった。

 そんな私を気遣ってくれたのだろう。タクシーの運転手さんは、たわいもない話題を、無理やり話しかけるわけでもなく、ただただ声に出し続けてくれたのである。

 そして、午前3時。つくば駅横のホテルにやっと到着。ロビーが解放されていたため、運転手さんにお礼を言って別れた。「家に帰れる」――。やっと安心したのを覚えている。

改めて痛感した声を出すことの大切さ

 さて、今回の経験を通して感じたこと。それは、声を出す、ことの大切さである。

 大げさだと思われるかもしれないが、誰も知らない土地で大きな地震に遭い、見ず知らずの土地で交通網が遮断された時に感じたのは、想像以上の孤独感だった。

 駅のホームでとてつもない恐怖に襲われた時、あまりの自然の猛威と恐怖に太刀打ちできず、誰も一緒に歩く人も、寄り添う人もいない時、ほんの一瞬ではあるのだけれど、「もういいや」と思ってしまったのだ。

 駅前で丸井の社員の方たちに誘導されて、どんどんと人がいなくなっていった時。誰とも連絡がつかずに、今、自分がここにいることさえ、知らせらなかった時。そして、しんしんと寒さが身にしみてきた時。

 何と言うかうまく言えないのだけれど、瞬間的に自分の存在を忘れそうになってしまったのである。それは今まで一度も感じたことのない感情だった。

 でも、そこで「大丈夫か?」とか、「こっちへおいで」とか、声をかけてくださった人のおかげで、ハッと我に返った。しっかりしなきゃ、と、気持ちが戻ったのだ。

 水戸駅のホームで「移動しよう!」と声をかけてくださったおじいさん。震源は仙台だ、と声を上げて情報を提供してくれた20代男性。「どうした?」と声をかけてくれたバスの運転手さん。そして大渋滞の中、つくばまでタクシーを走らせ、ラジオをかけながら、崩壊する街を見ながら、声を出し続けてくれた運転手さん。

 そんな声をかけてもらうことで、人の声が耳に入ってくることで、孤独感から解放され、しっかりしなきゃと、何度も背中を押された。

 声をかけてもらうこと。声を出す人がいること。そのことのありがたさといったら、たまらなかったのである。

 人間って、自分の存在に気がついくれる他者がいて、初めて自分でいられるんじゃないのではないだろうか。神戸の市長さんが「救ってくれたのは、人、でした」と語っていたのは、人は人とのかかわりなしには、生きられない。いや、生きられないのではなくて、生きようってことを忘れてしまう存在なんじゃないだろうか、と思ったのである。

 もちろん世の中には、そんな他人の存在がなくても、立っていられる強い人もいるかもしれない。

 でも、私のように、たまたま見知らぬ土地で、不測の事態に遭遇し、言葉にできない孤独感に襲われ、弱気になってしまうヘナチョコもいるわけで。

 自然の猛威と恐怖に太刀打ちできず、誰も一緒に歩く人も、寄り添う人もいない時、助かろうとか、頑張ろうとか、生きようってことさえ、忘れてしまうことがある。そんな時、たった一言でも声をかけてくれる人がいるだけで、我に返ることができるのだ。

 「あっ、頑張んなきゃ」、「しっかりしなきゃ」と。他人の声で血が巡り、自分の存在を思い出すのである。

「御苦労さま」の一言に涙したワーキングプアの男性

 以前、ワーキングプアの男性を取材したドキュメンタリー番組があった。このコラムでも取り上げたことがある(関連記事:働く“理由”─飲む、愚痴る、そして、働け!)。

 「生まれてこなきゃよかった」と語るその男性は、ある日、一日だけ公園の清掃の仕事をすることになる。

 朝から、公園を黙々と無表情に掃除をしていたのだが、通りすがりの人に、「御苦労さま」と声をかけられ、涙を流したのである。

 「あの涙は、何だったのか?」と、問いかけるディレクターに、その男性は「見知らぬ人が、ご苦労さまと声をかけてくれた」と答えた。そして、「今までは涙が出ることもなかった。でも、働いていた時に声をかけられて、人間の心が戻った気がする。きっとちゃんと社会復帰できれば、生まれてきてよかったと思えるようになるかもしれない」と語ったのだ。

 その番組を見た時、人間は社会とつながって初めて“人”になるのかもしれないと感じたし、仕事というのは他者に、「あなたがそこにいることは分かってますよ」と言ってもらえるための最大の手段になると思った。

 きっとそうなのだろう、と今でも思う。だが、改めて思いをはせると、見ず知らずの人に「ご苦労さま」と声をかけられたことで、その男性は「あっ、生きなきゃ」と我に返ったんじゃないかと思えてならない。

 仕事を失い、家を失い、社会から孤立し、孤独感を強めていたその男性は、自分の存在を感じ取れなくなっていたのではないだろうか。ところが、「ご苦労さま」と声をかけられたことで、自分がそこに「いる」ことを感じ取った。声をかけられたことで、「あっ、頑張んなきゃ」、「しっかりしなきゃ」と、自分の存在を思い出したのではないだろうか。

 日本の自殺者は10年連続して3万人を超えている。

 自ら命を絶つ人たちの多くは、人間関係や過重労働、経済的問題、将来への不安、健康問題など、いくつかの要因が複合的に重なり合って、あまりに困難が大きすぎて、自分ではどうすることもできないと途方に暮れる。

 どうすることもできない自分に、「生きている意味がない」と、自分の存在価値を見失い、生きる気力を失ってしまう人もいる。

 自殺を防ぐには、顔の見えるつながりが必要である。私はこれまで自殺対策の専門家の方の話を聞いたり、実際に悩む人たちに触れる中で、「つながること」の大切さは十分に分かっているつもりだった。そして、つながるためには、点と点を結ぶ、大きな取り組みが必要だと考えていた。

 でも、今回不測の事態に遭遇し、ただ、声を出して、声をかけてもらうだけでも、救われる人は多いんじゃないかと思ったのだ。

 特別な言葉でなくとも、大げさな態度でなくとも、何気ない声かけによって、背中を押されることがある。声を出す。その声で、「自分は、今、ここにいる」ことが、確認できる。それだけで救われる人は少なくないはずだ。

 水戸駅のホームで、携帯を片手に声を発することもなく階段を駆け上がって去っていった人たち。大きな揺れで動けなくなっているおばあさんに気づくことなく(気がついているのかもしれないけれど)、無言で避難していった人たち。

 あの人たちも、誰かが、「力を貸して」と声を出せば、喜んで助けてくれる優しい気持ちを持っている人たちだったかもしれない。

 でも、あの瞬間、私には、彼らはとてもとても遠く、冷たい人に見えてしまった。それはきっと、私が見知らぬ土地で、独りぼっちで、孤独感を感じていたからかもしれないし、私が誰かと一緒であれば、彼らの存在も行動もさほど気にもならなかったかもしれない。

 それでもやっぱり、動けなくなっていたおばあさんたちを、置いていかないでほしかった。一言でいいから、「階段の上に避難しましょう」と駆け上る前に声を出してほしかった。だって、自分の存在を忘れてしまっている時って、「助けて」と言うことができないのだよ。いや、できないのではなく、助けてという気持ちも忘れてしまうのだ。

 そんな立ちすくんでいる人、困っている人がいたら、「大丈夫?」と声をかける。どう声をかけていいか分からなければ、タクシーの運転手さんがしてくださったように、「あれれ、墓が崩壊してるな」、「ほれ、店も倒壊しているぞ」、「東京もパニックだな」とただただ声を出して、たわいもない話題を共有する。たったそれだけでいい。

 それだけで、「人」がそこにいる意味が生じ、「人」を助けることができるのではないか。

 声を出す。簡単なことだ。見知らぬ人に声をかけるのは勇気がいる。でも、声を出せば、そこでつながりが生まれることだってあるはずだ。

 声を出すことの大切さを、初めて感じ取った経験でした。

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